猫と視野(続・猫と願い事)
シャケがリビングのテーブルの下を歩いているのをなにげなく見ていたら、テーブルの下に設置されている、ちょっとした小物類が置ける棚のようなものに頭をぶつけていた。
シャケは頭をぶつけた後、なにごともなかったようにエミューみたいな歩き方でくにゃくにゃとどこかに行ってしまったが、これが人間であれば、頭をぶつけた後、誰かに見られていなかったか周囲をキョロキョロと見まわしてみたり、もし誰かに見られていた場合、無様な照れ笑いで恥ずかしさをごまかす、などという無駄なことをしなくてはならない。かっこわるい。
シャケは、日頃ものすごいスピードで走り回ったりして、動体視力が凄いなぁと常々思っていたが、少なくとも頭をぶつけた時のシャケは視野が狭くなっていたのだろう。
だから、家具の一部に頭をぶつけるなどしたと思われるが、ということは、視野が広ければ頭をぶつけることもなかったということで、視野が広いということは大事なことなのかもしれない、と考えたのである。
そんなある日、前回とは違う神社に妻と参詣に行き、おみくじを引くと吉だった。
さらに、その神社で、『パフェになりたい』と書かれた絵馬を見つけて、”これって、『パフェが食べたい』の間違いではないのか?”、などと二人でその願い事についてしばらく議論した後、コーヒーでも飲もう、ということになりミスドに入ったのである。
ミスドでコーヒーを飲みながらチョコファッションを食べていると、妻が、”あなたの右目の瞼がおかしい”、と言う。
”どのようにおかしいのか?”、と聞くと、”瞼が垂れ下がっている”、と言い、僕の顔をiphoneで撮影し、見せてくれた。
言われてみると、確かに右目の瞼が垂れ下がってきているように見える。
”ちゃんと目は見えているのか”、と妻に聞かれ、”見えている”、と答えると、”では、どの程度見えているのか?”、という話になり、視野を確認するためのテストをやることになった。
そのテストとは、『まっすぐ正面を見た状態で、頭の上方から徐々に指を下してきて、その指が見えたら”見えた!”と言う』というものである。
妻は、頭の頂部より上くらいのところに指が下りてきた時点で、”見えた!”と言う。
僕が”見えた!”、と言った時、指は僕のほぼ目の前であった。
そして、”嘘やろっ!”、と妻が言った。
つまり、僕の視野はかなり狭い、少なくとも、妻よりは確実に狭い、ということが明確になったのである。
そこで妻が、”日常生活に支障はないのか?クルマを運転していて信号機は見えるのか?”、とさらに僕に聞く。
”日常生活に支障はないし、信号機も見える”、と僕は答えたが、よく考えてみると、今のところ支障がない、というか、事故などは起こしていない、というだけで、実はかなり良くない危険な状態なのかもしれない。
先ほどのシャケをみてもわかるように、視野が狭いということは、無闇に物にぶつかり怪我をする可能性などが高くなるということであり、それに加えて、最近では運動不足や加齢による足腰の衰えなどもあって、現に年末には酒を飲み道路で転倒、お口まわり玉ねぎ隊に入隊する、などということもあった。
だから、今の僕は、いつ事故などにより危険な目に会うかわからないが、ただ運がいいだけなのかもしれないのである。
つまり、視野を広く持つということは、無用な怪我などを未然に防止するために必要である、ということになり、とても大事なことだと思うが、そういう身体的なもの以外にも、たとえばものごとを思考する際などにおいても重要ではないか、と思うのである。
ものごとにはなにごとにおいても表と裏、上と下、光と影がある。ものすごく単純に見えるように思えるものでも、実際に見えているものはある一面に過ぎないわけだが、それらをいちいち吟味したりするのは面倒でもあるし、やたらと時間もかかるから、”まあ、なんとなく一般的にはこうじゃね?”、というような、安易な結論で手を打つことが多いような気がする。
それなのに、あたかも自分はものごとのすべてを掌握して、その主張はすべて間違いないと断ずるように語り、鼻を膨らませている人などがたまにあるが、それってかっこわるいことであるなぁと思う。
というところまで考えてみて思い出したのが、先ほどの絵馬に書かれていた、『パフェになりたい』、という願い事についてだが、どのような角度から考えてみても、僕にはその真意のほどはわからなかった。だけど、僕は”その願い事が叶うといいね”、とは思う。
とりあえず僕は、垂れ下がってきている瞼が少しでも改善して、視野が広がりますように、と願っている。
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