シャケとクー(とミュウ)のぬくぬく日記

仲良く喧嘩するシャケとクー(とミュウ)の日記

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猫と年齢

今年も暮れてきた。

それにしてもなんちゅう速さで月日は過ぎて行くのだろうか、まったく。

月日が過ぎて行くということはどういうことかというと、歳をとる、ということである。

ミュウなどは以前からあんまり変わっていないように見えるが、よく見てみると確実に年齢を重ねていて、ちょっと高いところには登ることができないし、髭のあたりもビジュアル的に年齢を感じさせるようになってきた。

それは僕も同様で、先日も酔っ払って転倒し、お口まわり玉ねぎ隊の一員になったことからも体力の低下は明らかで、そんなことからも自分の年齢というものを再認識させられていたのである。

その時の傷も徐々に癒えてきたが、”俺も歳をとったなぁ、体力が落ちたなあ”、という気持ちが強く残って、世の中のメリクリとかなんとかの喧騒を横目に見ながら、沢田研二の『時の過ぎゆくままに』を口ずさみながら自転車通勤などをしていたのだった。

myuandshake.hatenablog.com

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 そんなある日、僕は単身赴任先のマンションのエレベーターに乗った。

駐輪場に自転車を停めて、エレベーターホールに行くと、既にひとりエレベーターの到着を待っている中年の男性がおり、僕はその人と一緒に1階に降りてきたエレベーターに乗り込んだのである。

その人の目的階は5階、僕は6階。

それぞれが目的階のボタンを押し、ドアが閉まり、エレベーターが上昇を始めるまでのなんとなく気まずい空気の中に僕たちはいたが、上昇を始めると、その中年の男性がおもむろに僕に声をかけてきた。

”学生さん?”と。

 

ちょっと話は逸れるが、ここで、その時の僕の服装について簡単に説明しておく。

僕はエレベーターに乗る前まで自転車に乗っていたわけであるから、寒さを防ぐことができる服装、つまり、防寒を優先した服装をしていた。

具体的に言うと、ジーンズにN-2Bにマフラーにブーツ、更に、お口まわりの玉ねぎを隠すためにマスクを着用していた。

つまり、露出している部分は目から上だけ、というような出で立ちではあるが、それにしても僕は56歳である。いくらなんでも、”学生さん”と間違えるだろうか。

 

話を戻す。

僕は、”いえ、違います。”と答えた。当たり前である。

そして、”あんたより年上だと思うよ。”、と心の中でtweetした。

 

このことを僕はどう考えればいいのだろうか。

”うわ!若く見られた。嬉しー!”、なのだろうか。

いや、違う。実際、僕はそうは思えなかった。まったく。

たとえば僕が現在30歳だとして、その年齢で、”学生さん?”、と問われたとしたら、もしかしたら嬉しかったかもしれない。

しかし、僕は56歳であり、すでに初老の域に入りつつあるおっさんであって、そんな人間が学生と間違われるというのは不自然すぎる。

というか、なにかが根本的に間違っている!

 

では、なにが根本的に間違っているのかを考えてみた。

常識的に考えて、56年も人生を生きてきた人間であれば、様々な経験を積んできており、その経験には、楽しいことや辛いことがあるはずで、楽しいことの裏には、自ら血の滲むような努力してなんらかの成果を掴み取った、みたいな成功体験や、辛いことの中には、自分の努力だけではどうしようもない惨めな結果となり、そのために無力感に打ちひしがれたが自らの精神力でこれを乗り越えた、みたいなことなどもあって、そういうものが、その人の雰囲気とか更に言えば風格とかになって、独特のオーラを発して、周囲の人は、”あの人は、いろいろな人生経験を積んできているから信頼できる”、とか、”あの人の言うことはさすがに経験を積んでいるだけあって説得力がある”、なんてことになるはずで、僕もそうであるはず、と勝手に思っていたのだが、まさかの、”学生さん?”、である。

 

その男性から見ると、僕は、まだまだ人生経験が足りない若造、親の脛を齧りながら大学に通っている駆け出し、に見えたのだろう。

だから、いくら若く見られたからと言って、僕はぜんぜん嬉しくなかったのである。

しかし、その人は僕に教えてくれたのかもしれない。

”お前はまだまだ青い!精進しなさい”、と。

その男性の教えは僕にとって有難いものなのかもしれないが、若干心の傷にもなったのである。

 

 

僕の心と身体に傷を残したまま今年ももうすぐ終わる。

”身体の傷なら治せるけれど心の痛手は癒せはしない”と沢田研二は唄ったが、来年、僕の心の痛手は癒されるだろうか。

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