猫と思考と疲れる僕たち
僕が皿に顔を突っ込んでヒレカツを食べていると、前に座っていた妻が突然、”あー疲れた!”、とちょっと大きめの声で言ったので、僕は一瞬ビクっとして、どうしたのか?、と思い、上目遣いで妻の顔を見ながら、”どうしたのか?”、と尋ねた。
すると妻は、”instagramに写真をupしていたのだ”、と言う。
”それって指先でスマホを操作してただけですよね”、と僕は思ったが、ただ思っただけにしておいた。
しかし、よく考えてみると僕も会社ではほぼ机に向かってパソコンをカチャカチャいじったり、書類を読んだりしていることがほとんどで、別に重たいものを持ち上げたり長距離を歩いたり、ましてや走ったりなどしているわけでもないがやたらと疲れている。
なにがそんなに疲れるのか考えてみたが、そこでふと思い当たったのが、”俺はいつもなにかを思考していて、それによって疲れているのではないか”、ということであった。
でも、いつもなにかを思考しているなんてことは誰しもやっている当たり前のことで、なにも考えずに無の境地に至るなどというのは、つまり解脱しているということであり、煩悩に凝り固まった俗物の代表のような僕がそんな境地に至るわけもないのである。
それがわかっているのになぜ疲れるのか、それは思考していることを自覚しながら思考しているからではないだろうか、と僕は思ったのである。
思考し続けていることに自覚したのは3年ほど前だろうか。
酒を飲んでいる時もシャワーを浴びている時もベッドに横になっている時もぶらぶら散歩している時も自転車に乗っている時も信号待ちしている時も、僕はいつもなにかを思考していることを自覚したのだった。
そのことを自覚した時僕は、”俺はなぜこんなにもなにかを思考し続けているのだろうか”、と思考したことを覚えている。そして、”とても疲れるなあ”、とも思考したのだった。
先日、実家でさんざん飲酒して妻の運転するクルマで帰宅する途中、僕は妻に、これまで僕が単身赴任してきた地名を列挙し、それらの地区と時空についてどう考えるか?、というようなことを問うたそうである。
僕は酩酊しており記憶が曖昧であるが、次の日妻から、”変な質問をされて大変困った”、ということを言われた。
そんなことを人から問われたら、そらー僕だって困る。
そんな変な質問をする僕はまったく困ったやつであるが、たぶん、その数日前にDVDで観た映画『君の名は。』についてあれこれ思考していたので、その影響によりパラレルワールド的ななにかを酔っ払って蕩けかけた脳みそで思考したのだろうと思われる。
酔っ払ったときくらいなにも思考せずに、ゲラゲラ笑っていれば良いようなものであるが、つくづくめんどくさい男なのである。
こんな男なので自宅で寛いでいるときにおいても、そばで気持ち良さそうに横になっているミュウやシャケを見て、”こいつらはいったいなにを思考しているのだろうか”、みたいなことを思考し始めて、そこからまたパラレルワールドや死後の世界などを彷徨うなどするのである。
この世はまったく疲れる。
スポンサードリンク
にほんブログ村