シャケとクー(とミュウ)のぬくぬく日記

仲良く喧嘩するシャケとクー(とミュウ)の日記

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クーの世界デビュー(共用部から世界へ)

クーはほとんど鳴くことがない。いつも黙ったまま尻尾をぷらぷらさせながらこちらを見つめることでなにかしら自分の要求を訴えてくるが、それが通じないとわかると、今度は僕が嫌がる行動を始める。たとえば、本の表紙をかじったりとかする。これをやめてほしかったら餌をくれ、というわけだ。

お前はトランプか。

クーはベランダが好きだ。僕がベランダに出ると一緒についてくる。そして、ベランダのフェンスの隙間から外を走る車や通行人を眺めている。時々、上を向いて鼻をクンクンさせて風のにおいをかいだりしている。

僕のマンションはペット可だが、共用部においては、ペットはケージにいれるとか抱っこするなどしなければならないというルールになっている。つまり、ペットが共用部を歩くことは禁じられているのだ。ということは、ベランダは共用部なので、厳密にはクーがベランダを歩くのはルール違反ということになるのだが、まあ、僕にルールは通用しない。(嘘)

俺はトランプか。

そんな感じで、クーは短時間ではあるがベランダでの屋外時間を楽しんでいるのだが、そのうち、僕が出かけようと玄関で靴を履こうとしている際などに、ササーっと足下に来て、尻尾をぷらぷらさせながらこちらを見上げていることがよくあるようになった。いつもの目で訴えかけてくるやつだ。そして、僕は推測する。クーは玄関から外に出てみたいのではないか、と。こんなことが何回か続いた。さすがに玄関からクーを外に出すのはルール無用の僕(嘘)でも無理だ。かと言って、ケージに入れて屋外に出してあげるというのはなんか違う。クーもそんなことは望んでないと思うのだ。なので、たまに、ちょっとだけ、超短時間、ほんの気持ち、玄関から外に出して、外界の雰囲気を体験させていた。その時クーは、玄関を出ると、尻尾をぷらぷらさせながら、誰もいない共用部通路の遠くを見つめたり、鼻をくんくんさせたりしたあと、すぐに部屋に戻されることになる。

ある日、僕は妻と買い物にでかけた。ふたりで古い商店街を歩いている時、前からショルダーバッグをたすき掛けにした人が歩いてきた。すれ違おうとした時、その人のショルダーバッグに目が止まった。バッグから猫が顔を出していたのである。その猫は、おとなしくバッグから顔を出している。おそらく、このスタイルでの外出に慣れているのだろう。その時、僕は思った。

クーもイケるんじゃね?

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ChatGPTと猫のステッカーと総裁選

生成AIを使って我が家の猫のステッカーを作ってみた。家族の評価は概ね、『ミュウが似ていない』という意見が多かったが、それは僕も認める。何度か猫たちの写真をChatGPTを使ってイラスト化してみたのだけど、どうしてもミュウは似ていない。目の感じが再現できないのがその理由だと思っている。

そんな感じで時々ChatGPTを使っているのだが、昨日(2025.10.4)の自民党総裁選の様子をNHK ONEで観ていて、高市総裁爆誕直後に、ChatGPTに、『高市総裁はどの政党と連立組む?』と聞いたところ、『国民民主党じゃね?』と回答してきた。心の中で、『しょーもない』とポストして、更に、『自民党の解党的出直しってなんだったのか?』と追加でポストした。もちろん心の中で(僕はいっさいSNSをやってないので)。でもそこでふと、この人の過去の発言について思い出した。放送法違反違反による電波停止是認、総務省文書を捏造と断言し事実だった場合は議員辞職も辞さない等々。そうか、自民党は高市総裁の下、これから本格的に解党に突き進んでいくのか、と妙に納得したのだった。

寅さんはアナーキスト

BSで放送されている『男はつらいよ』を毎週観ている。以前は、NETFLIXやAmazonPrimeでも観ることができていて、その頃観ていた分も合わせるともう何周観ているかわからないほどだ。何周も観ている理由は、単純に飽きないからであり、なぜ飽きないのか自分でも不思議に思いその理由を考えてみた。(暇なのである。)

そこで行きついたのが、”寅さんはアナーキストではないか”ということであり、僕は”アナーキストである寅さんにあこがれの気持ちを持っていて、また、アナーキズムそれを支持しているから何度観ても飽きないのだ”ということである。

「男はつらいよ」の主人公・寅さんは、型にはまることを嫌い、権威や社会のルールに縛られるのを本能的に拒む人物であり、こうした気質は「アナーキスト(無政府主義者)」と呼ばれる思想に通じる。アナーキストとは、国家や制度などの上からの支配を否定し、個人の自由と自発的なつながりを重んじる立場をとる人のことで、寅さんはまさにそのような精神の持ち主で、家族や近所の人々が築く安定した暮らしの枠組みにうまく収まることができない。家や家族という枠組み(制度)に落ち着きたくてもできない。マドンナに恋をしてふられることが多いが、たまに成就しそうになると逃げてしまう。家という枠組み(制度)に縛られるのがよほど嫌なのだろう。しかし一旦旅に出て、既成の枠組(制度)から解放されると、その自由奔放さが魅力となり、しがらみのない心から、損得とは無縁の交流を生み出す。寅さんの旅先での言動は、いつも自身の気持ちから自然に出る感情を表現したものであるようだ。規則や形式よりも人情を優先する寅さんは、旅先で出会う人々にとって、束縛から解き放たれた存在であり、だからこそ深く慕われるのではないだろうか。寅さんが、どこかの農家の縁側で、出されたお茶や漬物をいただきながら昼食を食べるというシーンがたびたびあるが、僕はこれが不思議でしょうがなかった。どうして見ず知らずの他人に、縁側だけでなく、お茶や漬物まで提供するのか。謎だった。しかし、寅さんがアナーキストであり、その対極にあるのが農家のおばあちゃんであると考えるとなんとなく納得できる。土地や家に縛られているおばあちゃんにとって、自由なアナーキストである寅さんによる外の広い世界の話は貴重な情報であり、その情報に対するお礼として、縁側やお茶を提供する。そう考えるとしっくりくる。

どこかの回で、寅さんが、”俺は税金を払ってねえんだ!”と言ったことがある。税金を払っていない立場。これを自分に当てはめてみると、なんとも自由な感じがする。ふわりと心と身体が軽くなり、足が床から数センチ浮き上がるようである。

僕がなぜ何度もこの映画を観続けるのか、さらに言えば日本人に長く愛され続ける理由はというと、寅さんというキャラクターが、日本社会の中で多くの人が心の奥に秘めている「自由への憧れ」を体現しているからではないだろうか。日本の社会は秩序や和を大切にする一方で、個人の行動や選択はしばしば周囲の期待や慣習に制約される。土地や家に縛られるわけである。多くの人はその中で生きる安定を選びながらも、心のどこかで「もし縛りを解いて旅に出られたら」という夢を持つわけだが、寅さんは、その夢を僕らの代わりに生きてくれる存在であると言えるのではないだろうか。彼はいつも失敗し、恋も成就せず(または自ら逃げて)、安定を手に入れることは(し)ないが、それでも自分らしく自分の人生そのものをも笑い飛ばして生きる姿は、僕に安心感と希望と夢を与えてくれる。僕はこれからも、アナーキストである寅さんを観ることで、心を少しだけ軽くして毎日を凌いでいくのだろうと思う。

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ブラッシングによる癒しと眼のかゆみ(毎朝のルーティン)

ここ1か月ほど、毎朝ベランダでクーをブラッシングしている。ブラッシングされているクーはとても気持ちよさそうにしている。始めた当初は、背中やわき腹を中心にブラッシングしていたが、いろんな場所をブラッシングするうちに、クーが特に気持ちよさそうにしているところがわかってきた。それは、僕にとっては意外だったのだが、頬っぺたと頭頂部だ。クーは普段喉を鳴らすことをほとんどしない。ただ、背中やわき腹をブラッシングしているときは多少喉をならすが、それほどではない。それが頬っぺたや頭頂部になると、はっきりとゴロゴロいっているし、めちゃくちゃスリスリしてくる。どちらかというと、グイグイ頭を押し付けてくるほどだ。とても気持ち良いということがこちらに伝わってきて僕もうれしくなる。僕はこれまで、猫が気持ちいいと感じるのは、尻尾の付け根や顎などだと思っていた。たしかにそこも気持ちよさそうにしてはいるが、頬っぺたと頭頂部は別格といっていいほど反応が良い。ぜひみなさんにも試していただきたい。その際は、手で撫でるのではなくブラシを使っていただきたい。たぶん猫の反応に驚かれることと思う。

僕は、毎朝出勤前にこのブラッシングをしているのだが、終わった後の眼のかゆみはかなりつらい(猫アレルギーなので)。でも、この短いブラッシングの時間が僕にとって癒しになっているのは間違いない。これからも僕は、毎日眼を赤くしながら仕事に出かけるだろう。それでいいと思っている。

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嗅覚対決

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猫の嗅覚はすごいという。どれくらいすごいかというと、人間の数万倍から数十万倍以上優れているらしい。確かにすごい。だからなのか、やたらといろんなものを嗅ぎ回っている。私が外出先から帰宅すると、玄関で脱いだばかりの靴の臭いを嗅いだりしている。大丈夫か?と心配になるが、その靴にしばらくすりすりしたりして、しばらくすると、満足したのか離れていく。私の靴は、猫にとって嫌な臭いではないらしい。ただ、おかげで私の靴は猫の毛まみれである。そして、実は私も案外鼻が効くほうではないかと自負している。アレルギー持ちなので、くしゃみ鼻水は年中のことではあるが、なぜか食べ物を食べた時の嗅覚は、なかなかのものだと謎の自信を持っている。具体的に言うと、食べ物を口にしたあと、鼻に抜ける香りというやつで、これは結構味覚にも影響していると思う。その鼻に抜ける香りについて、私は敏感だと言っている。口にした瞬間、美味しい!と感じても、その後、鼻に抜ける香りの中に嫌なものを察知すると、もうそれは美味しくない料理に分類される。その嗅覚が、かなり優れていると思っているわけである。しかし、世間的によく言われ、テレビのグルメレポートなどでも散々言われているにもかかわらず、私自身これまで一度も嗅いだことがない香りがある。それは、蕎麦の香りというやつである。私は、蕎麦の喉越しが好きで、ちょくちょく蕎麦を食べるのだが、この蕎麦の香りというやつを一度も嗅いだことがない。いったいどんな香りなのか、とても気になるのだが、まったく感じない。試しに、蕎麦つゆをつけずに、蕎麦だけを口に入れ、鼻から息をふふーんっと吐いたりしたことは何度もあるが、何度やってもまったく臭わない。テレビなどでグルメレポートをしているレポーターは、蕎麦を食べる際には、『蕎麦の香りがしますねー。』ではなく、具体的にどんな香りがしているのかレポートしていただきたい。この手のレポートを見るたびに、私は、『それって蕎麦の香りじゃなくて蕎麦つゆの香りなんじゃねーの?』と心の中で密かにX(旧twitter)にポストしている。猫にはぜひ、一度蕎麦を食していただき、その蕎麦の香りとやらをレポートしていただきたい。そのうち、やれるんじゃね?

世界は鏡

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私はやたらと人の行動が気になってしまう。その気になる人の対象はさまざまで、道を歩いていて前から来る人だったり、カフェだったり、時と場所を選ばない。たとえば、カフェなどで、となりの席の人が、コーヒーをずるずると音をたてて飲んでたりすると、ちょっと気持ちががさがさしたりする。車を運転している時もなにかと気になることが多い。まあ、これらのケースであれば、気になる対象の人とはその場限りの関係であり、もう二度と会うこともないと思われるから、気持ちのがさがさもその場限りなのだが、これが、ほぼ毎日同じ場所にいる、具体的にいうと、同じ職場の人だったりするとちょっとキツイ。隙あらば居眠り&鼾の人、とか、いつもマスクを着けているのに、なぜか咳をする時にずらす人、とか、脳内で流れていると思われる音楽のリズムに合わせて机を指でトントン叩く人、とか。そういう人物とほぼ毎日顔をあわせるとなると、もうね、毎日毎時間、がさがさしてしまって疲れてしまう。うんざり。だから、もう人の行動を気にするのをやめたい、周りの行動にいちいちがさがさするのは嫌だ、と思っている。しかし、やめようと思っていても、性格だからなのかどうかわからないが、やめられない。世間の人たちは、そういったことをそれほど気にすることなく、無関心にやり過ごしているように見える。裏山。では、私はどうすればいいか。気にするのをやめようとするのではなく、考え方を変えればいいのではないか、そう考えた。つまり、私が変わるのである。私にとって不快な行動をとる人は、その人にとっては他人に不快感を与えているとは考えてもいないわけで、だから、そういう行動をとっている。他人がそういう行動をしていても、その人は不快に思わないということなのだろう。これを簡単にいうと、私が不快だと感じる行動をとっている人と私は価値観が違うということになる。ということは、いくら私が気持ちをがさがさしていても、その人はなんとも感じていないわけで、勝手にがさがさやっている私が馬鹿みたいということになる。話は変わるが、高速道路を走る際、追越車線をスピードを出して走っているような時、後ろから自分よりも速い速度の車がぐんぐん近づいてくるようなことがある。そんな時、『ぜってー、抜かせねー。』とか言って、更にアクセルを踏み込んだりすると、むこうもなんかやる気モードになって、殺伐とした気持ちで運転をすることになり、ハンドル捌きなども荒くなるなどして危険だし、けっきょく気持ちががさがさしているものだ。それは、バトル的世界に身を置いているということで、では、ぐっと速度を落として、前方の車に追随し追い越したりしない運転をしてみると、周囲もなんかのんびりしていて、自身の心も穏やか、『なんか今日は気持ちいいなー。』なんて呟いたりして、いい感じになる。これは、人を貶めたり、出し抜いたり、俺が俺が、なんてことなどがない世界に身を置いているということではないでしょうか。つまり、自分の気持ちや行動によって、周囲の環境も変わる、自分が変われば周囲が変わる、ちょっと言い方を変えれば、周囲の環境は自分を映す鏡とも言えるんじゃね?これを踏まえて、前述の周囲の人の気になる行動をどう考えればいいか考えると、それらのちょっとウザい行動を教訓としてとらえ、自分がそれをしなければよい、と考えればいいと考えた。当たり前すぎる。周囲の環境は鏡なのだから、もしかしたら私がそれらのちょっとウザい行動をしていたのかもしれない。注意しよう。世界は自分を映す鏡である、ということになると、猫も私を反映していることになるのだろうか。しょっちゅうトイレに行ったり、空腹になるとやたらアピールがうるさかったりと、そういうところは私を映す鏡のようでもある。でも、やっぱり違うような気がする。猫には猫の鏡があるのかもしれない。ということは、シャケとクーがお互いを映し合っているのかもね。

猫にハラスメント

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私は家の中で、近くに猫がいると必ずといっていいほどさわる。頭をちょっとなでることもあれば、体をすーっとなでたり、お腹をもふもふしたり、要するに、好きにさわっている。猫と人間は言語が異なるから、コミュニケーションには限界がある。仮に、猫のほうがさわられるのは嫌だな、と思っていたとしても、『さわらないでください。キモいので。』とは言えない。 せいぜい嫌な顔をするくらいしかできないし、実際、時々、嫌な顔をされることがある。時には、さわろうと手を伸ばすと、思いっきり避けられるようなこともある。突然ですが、私は、ハラスメントというのは、受け手側の捉え方しだいだと理解している。つまり、猫のほうが私にさわられることを嫌だ、と思っているのであれば、私は猫に対してハラスメント行為をしていることになる。もしかすると、猫は私の行為が原因で、PTSDを発症しているかもしれない。もし、そうであれば謝罪します。すみません。今般、世間では、タレントが女性アナウンサーにハラスメント行為をしたこと、それがテレビ局の業務上でのことだったことが認定された、ということが報道されている。さらにこのテレビ局では、他にも、キャスターのハラスメント行為も認定され、そのキャスターは役員にまでなっている、ということも報道されている。『被害者以外、全員下衆だなー。』と思っている。このニュースを見て、『なんか既視感あるなー。』と思っていたら、私の前にいた会社でも同じようなことがあったのを思い出した。パワハラ行為をされていた社員が、別の部署の社員に相談し、コンプライアンス室案件にまでなったにも関わらず、パワハラしていた社員は不問、しかも昇進した、ということがあった。ちなみに、この会社は地元では有名な企業で、当時、私が勤務先を言うことがあったりすると、だいたい、『あらー、いいところにお勤めで。』などとよく言われるような会社である。その会社は定期的にハラスメント教育などもしていた。なにかあれば、遠慮なくコンプライアンス室に相談してください、などと日頃から周知していたが、実態は前述のとおりだ。割としっかり社員教育をしていてもこのザマである。当時のことを思い出しながら、私自身ちょっと嫌な気持ちになった。それは、私は当時、そのハラスメント行為の現場を見ていた、ということだ。つまり、私は、ハラスメント行為の現場にいたにもかかわらず何もしなかった、ということで、これを思い出して、嫌な気持ちになったわけである。なぜかと言えば、これは、見て見ぬふりをしていた私もハラスメント行為の当事者と言えるからで、本当に恥ずかしい気持ちになる。この時、ハラスメント行為を受けていた社員は、直接ハラスメント行為をしている人に対してはもちろんのこと、傍観しているだけの周囲の社員も加害者に見えていたのかもしれない。ハラスメント被害とは、被害者と加害者だけの問題ではなく、その周囲の人を含むあらゆる環境を改善しないとなくならないのだと思う。過去の私の不作為を反省しつつ、猫へのハラスメントは続けたいと思っている。だって、さわらずにはいられない。

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